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  始めに −なぜ書くのか− 2007.12.5

 小説を書こうと思う。いや、最初は思いつくことを取りとめもなく書くだけだから、ジャンルとしてはエッセーになるのかもしれない(エッセーでも、小説のようにストーリー性があり、描写もオリジナリティーのあるものにしたい)。とにかく形式は何でもいいから、今考え、感じていることを文字にしてみようと思う。 本当は翻訳も面白そうで、この冬の間に文芸書を一冊訳してみようかと思っていたのだが、あることがきっかけで物書きの真似事をやってみようと思い立った。今回きっかけとなった「あること」というのは、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」という新刊書だ。この本を読んでいるうちに「書こう」という気持ちになった。

 僕の場合、村上春樹が1978年4月1日の午後1時半前後にヤクルトスワローズ試合を観戦していて、先頭バッター野デイブ・ヒルトンが二塁打を放ったときに何かが舞い降りてきて「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立った時のような神の啓示とも受け取れるドラマチックな瞬間は訪れはしなかったが、最初はクリスマスツリーに飾られたLED1個ほどの光も放っていなかった微かな想いが、この本を読み進んでいくうちに次第に熱を帯び始め、その熱がものぐさな僕をも突き動かすエネルギーとなった。2007年12月2日の夜、自分のサイトを更新中のことだった。

 で、何を書くのかというと、この本のタイトルの一部にもなっている「走る」ことについて。彼がこの著書で「走る」ことについて語っている内容が、僕のこれまでのランニングヒストリーとオーバーラップする部分が少なからずあり、走ることに対して少々生真面目すぎる姿勢やレース中の心の動きも思わず笑ってしまうほど似通っている。それはおそらく僕だけでなく、他の多くのランナーにも共通していることなのかもしれない。しかし、手の届かない雲の上の存在でしかなかった村上春樹が、レース中に隣で苦しそうにあえぎながら走っている中年ランナーのような身近な存在に感じられた。

 この本の中で次のように書いている。
 「小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。・・・人生は基本的に不公平なものである。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の『公平さ』を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような『公平さ』に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。」

 小説を書くのは、「時間と手間がかかる」こと、公平さを求めるのは「個人の裁量である」こと。この二つの事実が、僕を手漕ぎの舟でまだ見ぬ大海原に出てみようという気にさせたと言える。



 第一章 僕にとって「走る」ということ

 市民ランナーの僕にとって、走るうえでライバルはいないが、マラソンを走るたびに目標としているタイムはある。3時間。これを切ると、サブスリーランナーの仲間入りができる。僕は、どんな人であれフルを3時間切って走る人を尊敬する。 だから、走るときはいつだってサブスリーをめざす。これまで10回以上挑戦しているが、その3時間という巨大な壁はいつも僕の前に大きく立ちはだかる。

 「3時間切って走る」と聞いても、走らない人たちはこう言うだろう。
 「オリンピック選手たちより、1時間近くも遅いの?」

 これはもう口でいくら説明しても走らない人には分かってもらえないと思う。その代わり、一度でもフルを走った人たちには説明する必要さえない。サブスリーがどういうことかを、ランナーたちの両脚が理解しているから。僕にとって、2時間59分で走る市民ランナーも2時間6分で走る世界記録保持者も違いはない。3時間切ってゴールする人には、みんな等しくサブスリーという栄誉があたえられているのだから。

 思い起こせば、始めてのマラソンは15年以上前に走った香川県の小豆島オリーブマラソンだった。 11月末の日曜に開かれ、制限時間も5時間とわりと緩やかなので、翌年の2月にある愛媛マラソンの調整を兼ねて走るランナーも多い。往復コースで、片道にそれぞれ7つのアップダウンがあり、計14回も上り下りしなければならないのがここの特徴。愛媛マラソンは市内を走るから平坦なコースだと思っている人が多いが、実際は何箇所か高架の坂を走るし、ゴールのある運動公園に戻る最後の坂は、ボストンマラソンの心臓破りの丘に匹敵する急峻さで、今にも倒れそうなランナー達を待ち構えている。と言うわけで、愛媛マラソンの練習にはもってこいのコースなのだ。この初挑戦の大会で3時間半を切ったことが自信にもなり、翌年愛媛にも挑戦しようという気持ちを強いものにした。とはいえ、初めて走ったフルマラソンは、多くのランナーがそうであるように想像をはるかに超える過酷なものだった。


 第2章 大会ボランティア −松山市主催 坊ちゃんハーフマラソン−

 この大会は、縁あって昨年までの過去3年間ボランティアとして大会運営のお手伝いをさせてもらった。朝6時に起床し、7時からのスタッフミーティングに出る。そこで打ち合わせをした後、それぞれ担当するエードステーションまで歩いていく。到着するとすぐ、テント設営や給水準備に取り掛かる。スポーツドリンクと水をペットボトルから紙コップに移しかえ、用意したテーブルの上いっぱいに並べる。コースの両側にゴミ箱も設置する。重信川の河川敷沿いコースなので、つねに強い風が吹いていて、よくこの箱が飛ばされる。大きな石を重石として箱の中に入れる。こうして作ったゴミ箱だが、紙コップをこの中にうまく捨ててくれるランナーはほとんどおらず、結局は沿道を歩いて一つ一つ拾うことになる。走った者の経験からいうと、それは仕方のないことで、その紙コップがランナーの元気の素になったと思うとすべて報われる。

 エードステーションの準備が終わる頃を見計らっていたかのように、先頭集団が走ってくる。このあたりのランナーたちはいっさい給水しない。ハーフでの給水によるタイムロスは、勝負を左右するほど大きいからだ。僕たちの声援もまったく耳に入っていない様子で、河川敷を吹く一陣の風の如く瞬く間に通り過ぎてゆく。

 先頭集団からやや遅れて、第二集団がやってくる。1時間15分前後でゴールする先頭集団の走りと比べるスピード感は見劣りするものの、皆しっかりとした足取りの「走る集団」だ。彼らの中にはちらほらドリンクを手にするランナーもいる。

 その後やや時間を置いて、数珠繋ぎになった大きな集団がくる。ここからがボランティアの腕の見せ所。紙コップを両手に持って、大きな声で「水でーす」「ポカリでーす」と叫ぶ。(なぜか、スポーツドリンクはアミノバリューだろうがアクエリアスだろうが、すべて「ポカリでーす」となる。おそらく、最初に開発されたスポーツドリンクでもっとも親しまれている商品であることと、その名前の言い易さによるものだろう。商品のネーミングは大切だなとあらためて思った。)

 「走りながら受け取る選手」と「立ち止まって受け取る選手」を見分けるのもボランティアとして求められる重要なスキルの一つだ。顔の表情や走り方などから、両者を瞬時に判断する。スタッフにすがりつくような目を投げかけてくるのは立ち止まるランナー。一方、うなずくようにチラッと見るのは走りながらのランナー。走りながら受け取る選手には、その走りに対応した、まるで氷上を滑るような、あるいはマイケル・ジャクソンのムーンウォークのような、上下のブレのないスムーズな横の動きで手渡すことが求められる。そうしないと、コップの中身がこぼれたり、最悪選手の身体にかかってしまうこともあるからだ。糖分の入ったドリンクが脚や胸に掛かるとベトベトした違和感がいつまでも残り、それは嫌なものだ。走っている間中、気になってレースに集中できないこともある。

 この大集団でも後ろの方のランナーは、もうほどんど走っている状態ではない。きっと本人としては走っているのだろうが、沿道から客観的に見ていると、それは歩きに近いものがある。「走っている」とは、両足が地面から同時に離れている瞬間が必要なわけで、彼らの走りにはそんな瞬間が訪れる気配はいっこうに感じられない。僕にも経験があるが、自分では決して歩いているという感覚はない。確かに走っている。だが、あるレース後知人から、「最後はきつかったのでしょう。歩いてしまったけれど、あれはしょうがないわね。」と慰められたことがあった。「えっ、歩いたって?」と思わず声を出しそうになったが、喉まで出かかっていたその言葉をかろうじて飲み込んだ。走り切ったと思ったのは本人だけで、沿道で声援を送ってくれていた人たちには歩いているように−実際歩いていたのだろう−見えていたのだ。

 立ち止まって給水するランナーたちとは、二言三言会話を交わすことが多い。むろんお互い初対面だが、そこは走るという共通の趣味でつながっているわけで、旧知の仲であるかのように話ができる。
 「えらいですね。」−「わしゃあもう75じゃけど、若いもんにはまだ負けられんけんな。」
 「ゆっくりしてください。ここからが粘りどころですよ。」−「はい、はい。納豆みたいに粘ろうわい。アッハハ。」
 「お、そのキャップかっこいいですね。」−「ありがと。昨日、アルペンで買ったんよ。」
 「水もう一杯どうですか?」―「うん。頭からザバーッと掛けてや。頼まい。」

 この大集団から大きく遅れて、自他共に歩いているとはっきり認めている(だろうと思われる)集団が走ってくる。ひょっとしたら、ある意味この集団が一番大会を楽しんで走っているのかも知れない。重信川河川敷の晩秋風景を眺めたり、セッカやオオヨシキリといった小鳥のさえずりもその耳でしっかりとらえていたりして…。いや、そんなことはない。きっと彼らも苦しみに耐えながら走っているのだろう。
 そう言えば、ある有名なマラソンランナーが「今日のレースは終始独走で楽でしたね。」と言われたときに、次のように答えている。
 「楽に走っているランナーなど一人もいない。トップで颯爽とテープを切ろうが、最後に這うようにゴールに辿りつこうが、苦しみはすべてのランナーに等しく与えられる。だからこそ、人は走り続けるのだよ。」
 走ることの意味がすべてこの言葉の中に凝縮されているといっても過言ではないだろう。そして、僕が走り続ける意味もそこにある。
                               完

(念のため付け加えておくが、これは「ある有名なランナー」の言葉ではなく、僕自身が常日頃感じていることだ。悪しからず。)


 第3章 しまなみ海道100kmウルトラマラソン2004

 2年がかりで、やっと100ウルトラマラソンを完走した。昨年(2003年)は、80km地点で無念のリタイア。今年こそはと、期するものがあった。しかし、現実はそれほど甘いものではなく、途中幾度あきらめてしまいそうになったことか。そして、このままのペースでは本当に制限時間内にゴールできなくなりそうな62.6kmの大三島ICエード地点で、マラソンの神様たち(!?)との運命の出会いが僕を待っていた。この神様たちとの出会いがなければ、僕の完走は決してなかった。神様たちというのは、目の不自由な2人の選手を伴走していた「日本100マイルクラブ」のメンバーだった。彼らに、「これから一緒に頑張れば、まだ制限時間内にゴールできますよ。」と励まされ、その気になってしまったのだ。

 エード地点を出発すると、僕の前後を彼らが挟むように走り始めたので、同じペースで走り続けざるを得なかった。彼らは僕を絶えず励まし、勇気づけ続けてくれた。大島ICエード地点にたどり着く前の状態は心身ともに最悪。よくもまあこんなに「止めるための理由」を思いつくものだと、自分でも感心するほどネガティブな心理状態に陥っていた。「もうこれ以上は無理。右足の甲がひどく腫れ上がって着地するたびに激痛が走る。こんな痛みは初めて。ここで無理したら、今後走れなくなってしまうかも。そもそもなぜ走るのか。原点に戻れば、「健康」のためだったはず。敢えて不健康なことする必要もない。それに走るのを止めるという決断を下すのも勇気あることだ。」などと、考えうる限りのありとあらゆる言い訳を探しながら走っていた気がする。そんな僕の心理状態を一気にポジティブなものへと変えてくれたのだから、神様たちの優しさと粘りは半端ではなかった。

 「『完走できるかな』では完走できない。完走するんだ、という強い想いがないと駄目。『脚が痛いから。もう動けないから。しんどいから。』こんな風に、辞める理由をさがしていては完走はできない。70キロ、80キロ走ればだれだって身体のどこかが痛くなってくるもの。みんな痛い。完走するための秘訣は、辞める理由を一つずつ捨てること。そして、完走するための理由を一つずつ拾い集めていくこと。昨日までの練習はなんだったのか。『次』と思っている人間に、[次』は永遠にやって来ない。ここで諦めたら、いつまで経っても自分に克ことはできない。前へ、前へ。立ち止まったらゴールはありえない。歩いてでも、這ってでも前へ、前へ。」

 こうして神様たちから掛けてもらった言葉と、目の不自由な二人のランナーのがんばる姿によって、僕は走り続ける勇気を取り戻すことができた。5キロほど伴走してもらった後、自分のペースをつかんだ僕はお礼を言って彼らと別れ、再び一人で走り続けた。そして、制限時間内にゴールインすることができた。


第4章 目の不自由なランナーの伴走

 はじめての伴走だった。たった10kmだが、これほど精神的に大きなプレッシャーを感じながら走ったことはなかった。目の不自由なHさんに安心して、そして快適に走ってもらえるよう細心の注意を払いながらの伴走。Hさんの左手と僕の右手には丸い輪になった一本のロープがしっかり握り締められていて、それは何の変哲もないただの本のロープだが、初対面の二人がお互いに信頼しあっているという証でもあった。

 僕にとって10kmを(Hさんの自己ベストである)50分で走るのはそれほど大変なことではないが、他のランナーとの接触を避けたり、走路の確保をしたり、常に声を出して周囲の景色やコースの説明をしたりしながら伴走するのは、想像以上にきついものだった。当然のことだが、Hさんのペースに合わせるから、2キロも走らないうちに呼吸が乱れて、自分本来の走りができなくなってしまった。あらためて、目の不自由なランナーの伴走者は、かなりレベルの高い走力がないと務まらないことを痛感した。

 こんなことでHさんに迷惑かけることなく、最後まで伴走できるか不安な気持ちになったが、幸いもう一人ベテラン走者が付いていてくれたので、後半の伴走はその方にお願いした。僕は二人の5、6メートル先を走り、大きな声を出して他のランナーの注意を喚起したりと、もっぱら走路の確保に努めた。

 今回なぜ伴走しようという気になったのかと言うと、それは「走ることをとおして人の役に立ちたい」と純粋に思ったから。これまでは、自分のためだけに走ってきた。自分の健康維持のため、自分に打ち勝つため、自己記録更新のため、自己満足のため、・・・。数え上げたら切りがないほど、自分のために走ってきた。どういうものだろうか、このままずっと自分のためだけに走り続けることに不安を覚えるというか、むなしささえ感じるようになった。年齢のせいでもないだろう(まだ40歳台に入ったばかりで、これからマラソンや駅伝の記録が伸びる手ごたえもある)。そんな時、走ることに楽しみを見出していながらも身体的なハンディーのため、一人ではレースに出られないランナーがいることを知った。僕でも役に立てそうだと思った。僕でも必要とされるかも知れないと思った。これがすべてだった。

 I am going to visit Miyazaki Prefecture next month to participate in a 10km race. This race will be a special one for me, partly because it is the first time to run in Miyazaki, but mainly because it is the race for the blind.
 Until I turned forty, I had been running just for myself. Then I thought of volunteering. I asked myself if there was anything I could do for others. One of my acquaintances told me about running with a blind person. Running is one of my hobbies and just by running I can support a person in need of help. I thought it was a really great idea, so about a year ago I made up my mind to take part in the Aoshima Taiheiyo Marathon.
  In order to get information on this race, I sent an email to the Municipal Office of Miyazaki city. Iwasa-san, one of the staff, was kind enough to let me know how to apply for the race and send me the form to fill out. We have exchanged emails several times. Kai-san is another staff member who has also helped me a lot. I was glad to get to know them.
  Now I have some brochures on running with blind people and they have a lot of useful information. If you are interested in running with a blind person, you may be interested in these brochures. I will write more after the race.

 初めての伴走の体験を、一編の詩に託した。一見、目の不自由な人の立場に立って書いた詩のようだが、実は僕自身の気持ちを読んだもの。今回、目の不自由なHさんの伴走をして、「目が見えるから、見えないもの」があり、「目が見えないから、見えるもの」もあると感じた。伴走をとおして、僕がこれまで見えなかったもの、見ようとしなかったものが少し見えてきたのは確かだ。

( 第12回青島太平洋マラソン国際盲人マラソンの部に伴走者として参加して )青島太平洋マラソン会場前にて
昨日までの僕
自分一人で生きてきたつもりだった
誰も頼らない
誰も信じられない
人の心さえも見えなくなっていた

今日からの僕
君が教えてくれた
心構えずにあるがまま
自分らしく生きることの喜びを
人を頼り人を信じることでしか
見えない世界もあることを

君と一緒なら
なにも恐れない
信じられる君の声があるから
闇の中でも走っていける

一本の細いロープを伝わる
君の手のぬくもり感じながら
潮風の中
僕は今風になる
I am running with you
I am running for you


 第5章 Music for Running

 ウィンドブレーカの左胸の内ポケットにiPod nanoを入れて、好きな音楽を聴きながら走る。同じリズムを刻むことができて、長時間でも気持ちよく走れる(ビジネス英会話も入れてあるから、シャドーイングしながら走ることもある)。

 Mando GrossoのEverything needs loveは気分を徐々に高揚させてくれ、まるで沿道からの応援がすべて僕だけに送られている感覚にしてくれる音楽だ。さびのEveryting needs loveがリフレインされるのを聴いていると、気持ちよくゴールテープを切っているシーンがイメージできる。

 Daishi DanceのLE LIFE LOOSEは河川敷のサイクリングロードで自分のペースを確認しながら気持ちよく走るのにいい。ピアノの旋律が心地よく耳に響き、ランナーを後押ししてくれるような女性ヴォーカルの歯切れのいい歌い方もいい。

 今のところ一番気持ちよく走れる音楽は、FreeTEMPOのsky high。この男性ヴォーカルは日本人だと思うが、メロディーを奏でるやわらかなピアノの音と彼の英語が違和感なく溶け合っている。この曲は繰り返し聴いても飽きることがない。まるで「走るのが嫌になったらいつでも止めればいい」と語りかけているような感じもいい。体調が芳しくないときでも、「もう少しだけ走ってみようか」という気持ちにさせてくれる。ただ、FreeTEMPOの曲ならどれでもいいというわけではなく、僕の感性と合っているのはこのsky highと女性ヴォーカルが囁くように歌うimaginaryだ。

 ゴール間近のラストスパートで力を与えてくれる曲といえば、定番の「ロッキーのテーマ」を思い浮かべるランナーも多いと思う。まあこれはこれで悪くはないのだが、惜しむらくは映画のイメージが強すぎる嫌いがある。この曲を聴いていると、シルベスター・スタローンがあのステロイド漬けの肉体を誇示しながら、今にも後方から追いかけてきそうで、ペースが乱れてしまう。
 ゴールまであと数キロの一番苦しいときに聴きたい曲を挙げるとすれば、クイーンの「Born to love you」だ。いったい何オクターブ出るのか知らないが、フレディー・マーキュリーの天をも突き抜けてしまうような高音の、それでいて太く響く声で歌い上げるこの愛の歌を聴いて、走る勇気が湧かない人がいるのだろうか。

 FMを聴いていると、達郎のRide on timeが流れてきた。「青い水平線を…」は押さえ気味のアンダンテ。「AHときめきへと 動き出す世界は」からはモデラートの軽快なリズムになり、いやがうえにも期待感が膨らむ。そして、その期待に見事100点満点で応えてくれるのが「Ride on time・・・」というサビ。ここからのリズムはアレグロの乗り。こんな身近なところに求めていた曲があったとは、正直驚いている(実は走るときに聴くJ-popを、TSUTAYAで何日も探していた)。

 ところでこの曲、出だしが「青い水平線を今駆け抜けてく」だから、イメージとしてはおそらくヨットかクルーザーに乗っているのだろう。しかし、僕は(不謹慎極まりなく申し訳ないが)追い風を力にして路上をすべるように疾走している自分の姿を思い浮かべてしまった。

 で、そのままTSUTAYAに直行し、達郎のベストアルバムを2枚借りた。帰宅するとすぐiPodに収め、ウインドブレーカーに着替えた。アディダスのアディゼロテンポを履き、お気に入りのナイキの白いキャップを目深にかぶり、北風吹くロードに飛び出した。それがちょうど1時過ぎ。

 向かい風を正面から受けて、思うようにスピードが乗らないが、イヤフォンから流れるRide on timeの後押しを受け徐々にピッチが上がる。どのくらい走り続けたろう。とにかく、今日のランニングは気持ちよく走ることができた。帰ってから、時計を見ると2時半を少しまわっていた。


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